LOGIN葛城静司から連絡が入ったのは、未央が九条側の滞在施設へ連れていかれた翌朝だった。
端末の着信音が短く鳴った。 高瀬さんの端末に、正式な面談依頼として届いた。宛先は私ではない。榊家の法務窓口。件名は短い。 旧白桐産院資料について。 その文字を見ただけで、昨夜の画面が戻ってきた。 青嶺療養院。手動メンテナンス。KMS_KJ。 同じ時刻に沈黙した三つのカメラ。 誰かが、声を届かせる前に道を消そうとしている。「会いますか」 律は、いつものように聞いた。 私はカップの縁に指を置いたまま、答えを決められなかった。紅茶は入れてもらったばかりなのに、もう香りが遠い。昨夜、ほとんど眠れなかったせいで、喉のあたりだけが乾いている。「会わなければ、また葛城さんの都合で話が進みますよね」「その可能性はあります」「ですよね」 少しだけ笑おうとして、うまくいかなかった。 葛城は、私に真実の欠片を渡してきた。守り袋の意味、産院の名使った。 その言葉を葛城自身の口から聞くと、思っていたより重かった。 律が車椅子を少し前へ動かす。車輪が絨毯の毛を押し、すぐに止まった。「あなたの顔が葵さんに似てきた時、康生が動くことは分かっていました。静江さんが守り袋を残したことも、あなたが如月家へ戻れば古い記録が動くことも。真実に近づけば、康生の隠してきたものが綻びると考えた」「三年前の追放も、想定内だったんですか」 自分の声が妙に遠く聞こえた。 葛城が返事に詰まっただけで、そこまで予測していたのだと分かった。「未央さんが如月家へ入った時点で、あなたの立場が危うくなることは予測していました。ただ、階段の件までは」「そこだけ切り離さないでください」 声が硬くなる。「どこまで壊れるかは分からなくても、壊れるかもしれない場所に私を置いた」 葛城の口が閉じる。 隣で、律の指が肘掛けを強く押した。金具が小さく鳴ったが、彼は言葉を奪わなかった。「私がコンビニで働いていた三年間も、見ていたんですか」 葛城の喉が動く。「所在は把握していました」 深夜のレジ、揚げ物の油、タイムカードを押す乾いた音。自分だけのものだと思っていた夜が、報告書の行へ変わっていく。「勤務先や住んでいた部屋も、資料に?」「生活を脅かす変化がないか、最低限だけ」 最低限という言葉は、監視する側が引いた線だった。「その線を決めたのも、あなたでしょう」 葛城は答えられなかった。 テーブルに置かれた水の表面が、空調の風でかすかに揺れる。彼はコップへ手を伸ばし、触れる前に戻した。「証拠の箱だったんですね、私は」 怒鳴りたいのか、泣きたいのか分からない。声だけが低く落ちた。「違うと言いたいところですが」 葛城は視線を落とした。「当時の考え方は、それに近かった」 きれいな否定より、ずっと痛かった。 私がコンビニで過ごした一千以上の夜も、彼にとっては康生を追い詰めるまで保存しておく時間だったのかもしれない。「
高瀬さんが録音開始の確認をし、葛城が同意する。今回の面談内容は、旧白桐産院資料、九条葵、九条康生に関する情報提供に限ること。未央の所在や通話内容については、本人の個人情報に触れる部分を不用意に開示しないこと。 録音機の赤いランプが、テーブルの中央で点いた。 高瀬さんが確認事項を読み終えるまで、葛城は黙って待った。 葛城は、昨夜未央から「自分は誰なのか」と電話で尋ねられたと話した。確定情報がないため、答えたような言い方はしなかったという。 葛城が先に言った。 その名前で、室内の温度がわずかに変わる。「康生さんなら、答えたように話すでしょうね」「そうでしょう」 葛城は頷いた。 その淡々とした肯定が、少しだけ腹立たしかった。 この人は、康生をよく知っている。 よく知っていて、それでも長い間、動かなかった。「今日、あなたが来た理由は何ですか」 私は聞いた。「未央さんの電話ですか。葵さんの療養院ですか。それとも、康生さんを追い詰められる材料が見つかったからですか」「すべてです」「便利ですね」 言い方が鋭くなった。 高瀬さんが止めるかと思ったが、何も言わなかった。律も黙っている。 葛城は、膝の上に置いた手を一度握った。「康生を止めたい」 初めて、感情が少し混じった声だった。「ずっとそう思ってきました」「ずっと?」「ええ」「だったら、もっと早く止めればよかった」 言った瞬間、会議室の空気が固まった。 でも、もう引っ込めるつもりはなかった。「私が三年前に追い出される前に。静江さんが死ぬ前に。葵さんが二十四年も療養院に置かれる前に。どこかで一度でも」 声が震えかけた。 私はテーブルの下で指先を握る。「あなたは、知ってたんでしょう」 葛城は答えるまでに間があった。 否定してほしかったわけではない。けれど、沈黙が肯定に見えることにも、もう慣れたくなかった。「すべてを知ってたわけじ
葛城静司から連絡が入ったのは、未央が九条側の滞在施設へ連れていかれた翌朝だった。 端末の着信音が短く鳴った。 高瀬さんの端末に、正式な面談依頼として届いた。宛先は私ではない。榊家の法務窓口。件名は短い。 旧白桐産院資料について。 その文字を見ただけで、昨夜の画面が戻ってきた。 青嶺療養院。手動メンテナンス。KMS_KJ。 同じ時刻に沈黙した三つのカメラ。 誰かが、声を届かせる前に道を消そうとしている。「会いますか」 律は、いつものように聞いた。 私はカップの縁に指を置いたまま、答えを決められなかった。紅茶は入れてもらったばかりなのに、もう香りが遠い。昨夜、ほとんど眠れなかったせいで、喉のあたりだけが乾いている。「会わなければ、また葛城さんの都合で話が進みますよね」「その可能性はあります」「ですよね」 少しだけ笑おうとして、うまくいかなかった。 葛城は、私に真実の欠片を渡してきた。守り袋の意味、産院の名、二人の赤ん坊、九千万円の取引。どれも、知りたくなかったのに、知らなければもっと長く踏まれていたものだった。 葛城の名前を見ると、腹が立つのに、画面を閉じることもできなかった。「会います」 私は言った。「ただし、こちらの部屋で。録音あり。高瀬さん同席。榊さんも」 律が、少しだけ目を上げる。「話さない方がよければ、黙っています」「それは無理でしょう」「努力はします」 昨日と同じような言い方だったのに、今度は声が緩んだ。 律の目元が、かすかに動く。 私はカップを置いた。「でも、いてほしいです。私が、葛城さんに怒るために」 律は、そこで笑わなかった。「……ええ。そばにいます」 面談場所は、榊グループ法務部の小さな会議室になった。壁は白く、テーブルは濃いグレー。中央には録音機と議事録用の端末だけが置かれている。 病室でも、屋敷でも、書庫でもない。 こういう場所で聞く
見張られている。 扉の外の足音を聞いた瞬間、未央は立ち上がった。 守られているのではない。 置かれている。 未央はドアへ向かい、勢いよく開けた。 内側からは開く。廊下にも出られる。外に立っていた女性スタッフが、にこりと笑った。「何かお困りですか」「少し歩きたいだけ」「庭園側のラウンジでしたらご利用いただけます。外出は管理者の確認後になります」「外出できないの?」「安全確保のためです」 また、それだ。 未央はドアを閉めた。「安全確保」という札が、さっき署名した紙にもあった。 スマートフォンが震えた。 司からではなかった。 九条康生。 未央はすぐに通話ボタンを押した。「康生さん、ここ、何なんですか」『落ち着ける場所です』 声は穏やかだった。「外に出られないんですけど」『今出れば、あなたは悪意ある解釈の前に立たされる。栞さん側は記録を持っています。あなたが不用意に話せば、会場での印象が固定される』「じゃあ、どうすればいいの」『何もしないことです』 未央はスマートフォンを握り直した。 以前にも、同じことを言われた。 誰かが動くように、置く。 何もしないこと。 今度は、置かれているのが自分だった。「守られているんですよね」 確認しなければ、怖かった。 電話の向こうで、康生がわずかに沈黙した。『あなたは、必要な場所にいます』 まただ。 必要な場所。 本物の娘だとは、言わない。 被害者だとも、守るとも、はっきりとは言わない。「私、本当に如月家の娘なんですか」 声が勝手に出た。 康生は答えるまでに間があった。『未央さん。今、その問いはあなたを弱くするだけです』「答えてよ」『落ち着きなさい』「答えて!」 自分の声が部屋の壁に跳ね返る。
――私は大丈夫。しばらく一人にして。 送信には時間がかかった。 既読はつかなかった。 その頃、司は会場の救護室前で、未央の行き先を聞いていた。「九条側で保護したとしか伺っておりません」 会場スタッフの返事は、丁寧だった。「保護って、どこへ」「個人情報に関わりますので、こちらからは」「俺は婚約者です」 言った瞬間、自分の声が虚しく響いた。 婚約者。 その言葉は、もうどれほどの重さを持っているのだろう。 さっき、未央は自分に来ないでと言った。 その前に、自分は未央のことを疑っていた。 さらにその前、三年前には、栞の電話に出なかった。 司は手の中のスマートフォンを強く握った。「桐生様」 背後から、相良さんの声がした。 司は振り返った。 相良さんは責める顔をしていなかった。むしろ、いつもと同じ、礼儀正しい距離のまま立っている。「未央様の所在について、こちらも正式な情報は受けておりません。九条側へ照会は入れますが、即時回答があるとは限りません」「栞は」 口から出てしまってから、司は後悔した。 なぜ、ここで栞の名を出すのか。 相良さんは一度だけ司の顔を見た。「朝霧様は、会場側の事情確認に応じておられます」「そう、ですか」「桐生様」 呼び止められ、司は顔を上げた。「今、誰かを助けたいのでしたら、見てないことを見たと言わないことです」 静かな声だった。 司は返す言葉を失った。 三年前、彼は見ていなかった。 なのに、見ていないことを、見た人たちの側に立って信じた。「……分かってます」「そうですね」 相良さんはそれ以上言わなかった。 相良さんが去ったあとも、その言葉が残った。 司はスマートフォンを握り直した。 九条家の代表番号へ電話をかける。受付は丁寧だったが、未央という名前を出した途端、確
流れていく街の明かりが、窓のフィルム越しに鈍く滲む。さっきまでいた会場から離れるほど、胸の中の怒りが少しずつ形を変えた。 車内は静かで、タイヤが路面を拾う音だけが続いていた。 怒りではない。 焦りだった。 栞は声を荒げることさえしなかった。 涙を見せることもなかった。 未央を責める言葉ひとつ口にしなかった。 ただ、記録を求めた。 あれでは、未央の方がひどく幼く見える。 倒れたのは自分なのに、なぜそうなるのか分からない。 スマートフォンを取り出すと、秘書が声をひそめた。「申し訳ありません。到着までは外部との通話をお控えください」「どうして」 その問いは、誰にも拾われないまま落ちた。未央は視線を下げた。「混乱を避けるためです」 未央は男を睨んだ。「誰から言われたの?」「九条康生の指示です」 康生。 その名を聞いただけで、張りつめていた肩から力が抜けた。 あの人なら、どうにかしてくれる。会場の映像だって、きっと何とかする。栞がどれほど手順を守っても、見る人が見なければ、映像はただのファイルだ。 そう思いたかった。 車は都心から少し離れた、静かな通りに入った。 到着したのは、ホテルではなかった。古い洋館を改装した会員制の滞在施設のように見える建物だった。看板はない。門柱には、小さく九条関連の管理会社名だけが刻まれている。 中へ入る時、未央は名前を書かされた。 如月未央。 その横に、利用目的として「休養・安全確保」と印字されている。「これ、何ですか」「滞在記録です」「署名しないと入れないの?」「手続き上、必要です」 男の声は、こちらの苛立ちを受け流すほど丁寧だった。 その丁寧さが、かえって腹立たしかった。 未央はペンを握った。手元が少し震えている。署名欄の上には、外部連絡の一時制限、施設内での面会は管理者承認制、情報漏洩防止のため滞在場所を第三者に伝えないこと、という文言が並んで
病院の個室には、消毒液の匂いと、心電図の小さな音が満ちていた。 ベッドの上の静江さんは、記憶の中の人よりずっと小さくなっていた。 頬は痩せ、手の甲には細い血管が浮いている。酸素マスクの下で、唇だけがかすかに動いた。 「静江さん」 名前を呼ぶと、まぶたが震えた。 ゆっくり開いた目が、私を捉える。 濁りかけた瞳の奥に、ほんの少しだけ昔の光が戻った。 骨ばった手が、シーツの上を探るように動く。点滴のチューブが、白い布団の上でかすかに揺れた。 私は慌てて、その手を両手で包み込んだ。 驚くほど冷たい。 それなのに、弱い指先が私の手を握り返した。 「し……お……り
午前二時過ぎ。 私を捨てた父が、コンビニのレジの前に立っていた。 「栞、少し付き合え」 自動ドアが閉じる。外の湿った夜気が途切れ、店内には揚げ物の油と、温めすぎたおでんの匂いだけが残った。 夜勤の店員は私一人。レジ横のホットスナックケースが、じり、と小さく音を立てている。 如月隆一。 如月グループの代表で、かつて私が父と呼んでいた人。 三年前、私を家から追い出した男だ。 私はバーコードリーダーを静かに置いた。薄い手袋越しの指先が震えている。それが、何より腹立たしかった。 「……何の御用ですか」 「話がある」 「申し訳ありません。雑誌と公共料金のお支払いでし
「律様、お時間です」 低い声が、扉の外から響いた。 広い執務室の奥で、榊律は窓の外に背を向けて座っていた。 机の上には、如月家に関する調査資料が並んでいる。 その一番上に、朝霧栞の写真があった。 コンビニの制服姿で、視線を逸らすように横を向いている。ひどく疲れた顔をしているのに、背筋だけは真っ直ぐだった。 律は写真の端に指を置いた。 三年前の豪雨の夜。 高架下で膝を抱えていた少女の横顔を、彼は覚えている。 名前を名乗ることも、声をかけることもできなかった。 ただ傘を差し出した。 そのあと彼女がどこへ消えたのかを、ずっと探していた。 「やっと、見つけ
司は廊下の壁際に立ち、こちらを見ていた。 三年前より少し痩せたように見える。 けれど、きちんと整えられた髪も、上質なスーツも、昔と同じだった。 何も変わっていない。 そう思ったのに、胸の奥だけが一瞬、昔の痛みを覚えてしまった。 「栞……」 呼ばれた名が、廊下に落ちる。 私は足を止めなかった。 「話があるんだ」 司が一歩踏み出す。 その指先が、私の袖をかすめた。 反射的に振り払った。乾いた音が、静かな廊下に響く。 「今、あなたと話すことはありません。私は如月家の人間でも、あなたの婚約者でもありません」 司の顔がこわばった。 「栞、俺は……」 「